元箱根磨崖仏
2019.07.29 Monday
鎌倉古道です。
精進池(しょうじんいけ)の近くです。
元箱根磨崖仏、殆どが地蔵菩薩です。 全部で26体です。
曽我兄弟の墓、右端は十郎の愛人、虎御前の墓、
地蔵菩薩信仰をしている集団が造立。
六道地蔵、高さ3.2m、これも元箱根磨崖仏の一つです。
多田満仲の宝篋印塔。天皇の子孫にあたる人。
芦ノ湖に出た時は雨でした。
箱根神社、正面は人が多くて撮れませんでした。
芦ノ湖にある鳥居、インスタ映えするというので
海外で評判になっているそうです。
途中で見た花々です。
タマアジサイが咲いていました。
ネジバナ。
ヤマホタルブクロ。
この後、帰宅しました。
鎌倉古道を歩く。
2019.03.14 Thursday
京王線聖蹟桜ヶ丘駅下車、多摩川に向かいます。
原峰公園、鎌倉古道の面影を残していると言われています。
かなり起伏があった道だったようです。
この近くに関戸古戦場跡があります。
新田義貞軍と鎌倉幕府軍が戦った所です。
1333年5月16日の事です。
その6日後、新田義貞軍の稲村ケ崎越えなどで、鎌倉幕府は滅亡しました。
鎌倉幕府霞ノ関南木戸柵跡です。
この関戸の関所の南にあった柵跡が復元されていました。
近くに有る観音寺のお地蔵様を写して来ました。
撫でられた跡が輝いていました。
近くの神社に行きました。
武蔵一の宮の小野神社です。
手前が拝殿、奥が本殿です。、幣殿は無いみたいです。
本殿は前の屋根が大きく長い「流れ造り」です。
千木が外削ぎになっているので男性の神様です。
今日の夜から1週間、ポルトガルに行って来ます。
穴守稲荷とその界隈、by 空倶楽部。
2018.02.09 Friday
神社巡りをして来ました。
京浜急行電鉄、穴守稲荷神社前駅から出発です。
穴守稲荷神社です。11時ごろ撮りました、
今回も快晴とはいかず、曇り空でした。
多摩川の堤防がしばしば決壊したので、
「堤防に穴が開かないように」祈願して神社が建立されました、
穴守稲荷神社、神楽殿です。
す
鳥居のトンネルです。伏見稲荷に行った様です。
かつては5千坪位の広さだったそうです。
昭和20年、GHQの移転命令によって羽田空港付近にあったこの神社が移転させられたそうです。
今の羽田空港の滑走路にあったこの鳥居は、ここに移転されました。
この鳥居から、羽田空港の管制塔が見えます。
セグロカモメでしょうか。
鴎稲荷神社です。
鴎が群れると魚群がいるので、鴎は漁師にとって縁起のよい鳥だったようです。
白魚稲荷神社です。
玉川弁財天と羽田水神社が同居していました。
「はねだのわたしと弁天の杜」広重の浮世絵です。
玉川弁財天も移転させられました。
羽田神社です。
羽田富士、富士山の溶岩が沢山使われています。 ここにも富士信仰の形跡が有ります。
木花咲耶姫を富士山本宮浅間神社で祀った事から、この姫の信仰が富士山信仰と結びついています。
隣の自性院の境内には白梅が満開でした。
この寺のそばの大師橋です。急に現実に戻りました。
空倶楽部の発起人は、かず某様と、chacha○様です。
浅草寺境内と浅草神社境内
2011.01.11 Tuesday
一言不動尊です。
一言だけお願いするとそれが叶うそうです。 今で言う Twitter不動尊かも知れません。
胎内くぐり灯篭です。
子供がこの空間をくぐると御利益があるそうです。
浅草神社には三社祭に使われる御神輿が公開されていました。
三社とは浅草観音を隅田川から網で引き揚げた漁師2人とそれを祀った村長の計3人のことを指します。
新門辰五郎が伏見稲荷の分身を勧請した被官稲荷です。
奉納された狐の表情が少しづつ異なる様です。 稲荷とは食のの神様です。 稲成りが稲荷になったとか、
御祭神の別名である御饌津神(みけつかみ)のその文字に、狐(ケツネ=キツネの古語)を使い、三狐神(みけつかみ)と記したためとか 被官稲荷の説明文に書いてあります。
そのような事でお稲荷様と狐とが縁が有る様です。
浅草神社の境内での猿回しです。 猿が逆立ちをしながら階段状のものを登って行きました。
浅草寺境内の紅梅です。
「梅一輪 一輪ほどの 暖かさ]」 ( 服部嵐雪の俳句) とはいかないようで。
♪♪北風の中に聞こうよ春を、北風の中に聞こうよ 春を、、、♪♪ のようです。
茨城県散歩、土浦
2009.07.26 Sunday
常陸国土浦藩の城下町、現在の土浦市をボランティアが案内してくれるという企画が有りましたので出かけてきました。
土浦のイメージは近くにある霞ヶ浦の帆引き船、阿見すいか、阿見飛行場のセスナ機の遊覧飛行しか知りませんでした。
観光のため操業されている帆引き船のパンフレットです。
土浦藩の初代藩主は土屋政道で9万5千石だったそうです。土屋氏と言ってもピンときませんが、赤穂浪士が本所の吉良邸に討ち入りした時、吉良邸の隣に住んでいたのが、土屋逵直ですので、この人の本家の祖先ということでようやく納得がいきました。
この土屋氏の土浦城は明治になって失火で焼けて櫓門だけ残りました。
土浦は水戸街道に面していて堀をつかって霞ヶ浦、利根川、隅田川とつないで江戸までの水運が発達していたので古くから栄えたとのことでした。
栃木や川越と似たようなパターンです。
上の写真は店蔵つくりと言われる土蔵のあるお店です。 昔は蔵が沢山有ったそうです。
その一つ「のむら」という店の2階の蔵には土門拳氏が写した予科練の生徒の写真が展示してありました。
零戦と思われる飛行機の後ろに有るのが、その写真です。
ここの阿見飛行場が予科練の練習に使われていたそうで、山本五十六氏も副官として、土浦に来ており
「やってみせ 言って聞かせて やらせてみて ほめてやらねば 人は動かぬ」 という彼の有名な言葉のコピーがかざってありました。
この日は「土浦祇園祭」の日で神輿や山車も出ていました。
ボランティアの人は本陣が有ったこと、蔵が沢山あったことをとても誇りに思っているようでした。
天草四郎を訪ねて、天草、島原への旅
2009.05.17 Sunday
「島原の乱」とはどんなものであったのかを見てみようという歴史お宅の旅に行ってきました。
熊本空港から一路、天草に向かいます。
天草に架かる五つの橋のうちの最初の橋です
天草では「三角西港」、「天草四郎メモリアルホール」、「崎津教会」等を見学しました。
2日目は鬼池から口之津までカーフェリーに乗って島原半島に行き、一揆軍だ立てこもった原城址を見学しました。
一揆軍約37000人全員が殲滅された、この城址に慰霊の塔が建っていました。
二日目に泊まったのは雲仙地獄の傍らにあるホテルです。
最終日は、この「雲仙地獄」を見学したあと仁田峠に行きました。
ミヤマキリシマが満開でした。
ロープウェイで妙見岳に登ると雲仙普賢岳が良く見えました。
この後、島原城の見学です。幕府軍側のこの城、広くて難攻不落で有ったのが良く分かりました。
昭和に入って再建された島原城の天守閣です。
この地域では往時、多数の少女が「唐ゆきさん」として海外に送り出されました。
「島原地方の子守唄」にはそのことが歌われてます。
「鬼池」とは土地の名前、「久助どん」とは唐ゆきさんを手配した男の名前です。
そのことを知ってから聞くこの歌はとても悲しい歌に聞こえます。
島原地方の子守唄
歌っているのは子守をしている少女ちう設定です。
増上寺の御忌大会
2009.04.03 Friday
4月2日から7日まで増上寺(港区芝公園4-7)で御忌大会(ぎょきだいえ)が始まりました。
様々な行事が行われ徳川家の霊廟も公開されています。
増上寺からソメイヨシノの花の後ろに見える東京タワーが素晴らしいです。
二天門(七代家継の霊廟の門)
地下鉄「御成門駅」のすぐそばにあるので、これが御成門と間違えられることもあります。
御成門(将軍の出入りした門)
以前は宿坊に行くための門として使われていたのでとても簡素に出来ています。
増上寺本堂
浄土宗です。家康が菩提寺にしましたが、この宗派は亡くなられた人を神として祀ることをしないので、天台宗の寛永寺から東照大権現と言う神になり日光東照宮に祀られています。
徳川家の霊廟には、2,6,7,9,12,14代の将軍が祀られています。
14代将軍の墓の隣は皇女和宮の墓があります。 皇女和宮が亡くなられたのは明治16年です。
時代が変わったので夫婦の墓が並んでいるのかもしれません。