紅葉の箱根
2010.11.26 Friday
紅葉を求めて箱根に行きました。 ネットで見ごろの場所を検索しての一泊二日の旅でした。
木賀にある堂が島渓谷に到着です。 全山紅葉でとても見事でした。
芦ノ湖を水源とする早川です。堂が島渓谷は別名、早川渓谷とも呼ばれてます。
岩を伝わって川の中から撮りました。
この岩から戻る時、不覚にも足を滑らして下半身びしょぬれになりました。
次に行ったのは強羅公園です。
紅葉は美しいですが少し狭くてなかなかシャッターポイントが見つかりませんでした。
翌日は大涌谷に行きましたが紅葉ははるか彼方に見えるだけでした。
次に向かったのは仙石原の長安寺です。
本堂です。 「東国花の寺百ヶ寺と書いて有ります。
鐘楼です。
イロハモミジが綺麗でした。
まるで京都に行ったようだと相棒が言っていました。
木賀にある堂が島渓谷に到着です。 全山紅葉でとても見事でした。
芦ノ湖を水源とする早川です。堂が島渓谷は別名、早川渓谷とも呼ばれてます。
岩を伝わって川の中から撮りました。
この岩から戻る時、不覚にも足を滑らして下半身びしょぬれになりました。
次に行ったのは強羅公園です。
紅葉は美しいですが少し狭くてなかなかシャッターポイントが見つかりませんでした。
翌日は大涌谷に行きましたが紅葉ははるか彼方に見えるだけでした。
次に向かったのは仙石原の長安寺です。
本堂です。 「東国花の寺百ヶ寺と書いて有ります。
鐘楼です。
イロハモミジが綺麗でした。
まるで京都に行ったようだと相棒が言っていました。
公孫樹 銀杏 イチョウ
2010.11.21 Sunday
イチョウを求めて散策です。
まず上野公園にある「おちょこ葉イチョウ」を探しに行きました。
葉っぱが丸まって「御猪口、おちょこ」の様になります。
公園のベンチで華道ならぬ「葉道」の始まりです。
我流「生け花」ならぬ、「生け葉」です。
次に旧岩崎邸庭園に行きました。
これは岩崎邸をバルコニーの方から撮りました。
ここは森鴎外の小説「雁」の舞台となった無縁坂のすぐ近くです。
小説ではこの坂の途中にお玉さんというお妾さんが居たことになってます。
この庭園には極小のイチョウの葉が見られます。
公孫樹とは孫の代にになってようやく実が食べられるようになることからこの字が使われました。
銀杏とは実がアンズに似て殻が銀白であるのでこの字が使われました。
イチョウとは、中国語で鴨脚と書いてヤーチャオと発音してたのが日本にきてイチョウと呼ばれるようになったといわれてます。
最後に神宮外苑のイチョウ並木を見て来ました。
まず上野公園にある「おちょこ葉イチョウ」を探しに行きました。
葉っぱが丸まって「御猪口、おちょこ」の様になります。
公園のベンチで華道ならぬ「葉道」の始まりです。
我流「生け花」ならぬ、「生け葉」です。
次に旧岩崎邸庭園に行きました。
これは岩崎邸をバルコニーの方から撮りました。
ここは森鴎外の小説「雁」の舞台となった無縁坂のすぐ近くです。
小説ではこの坂の途中にお玉さんというお妾さんが居たことになってます。
この庭園には極小のイチョウの葉が見られます。
公孫樹とは孫の代にになってようやく実が食べられるようになることからこの字が使われました。
銀杏とは実がアンズに似て殻が銀白であるのでこの字が使われました。
イチョウとは、中国語で鴨脚と書いてヤーチャオと発音してたのが日本にきてイチョウと呼ばれるようになったといわれてます。
最後に神宮外苑のイチョウ並木を見て来ました。
国立昭和記念公園
2010.11.07 Sunday
秋を探しにJR青梅線西立川駅のそばにあるこの公園に来ました。
東京ドーム40倍の広さだそうでいくら歩いても全体が把握出来ません。
ナンキンハゼ(トウダイグサ科)のグラデイションがとても綺麗でした。
草木の実を探して歩きました。
コナラ(ブナ科)にドングリが沢山ついてました。
スズメウリ(ウリ科)の実です。
ヤブカラシ(藪枯らし)ブドウ科の実です。
イイギリ(飯桐)イイギリ科、おにぎりをこの葉に包んだのでこの名が残りました。
ゴンズイ(ミツバウツギ科) 木が柔らかくて役に立たないので魚の名前ゴンズイが着きました。
ユズリハ(ユズリハ科)の実です。
モッコク(ツバキ科)の実です。
ウメモドキ(モチノキ科)の実です。
それぞれの木に名前の書いた説明板が有りますのだいぶ勉強になりました。
東京ドーム40倍の広さだそうでいくら歩いても全体が把握出来ません。
ナンキンハゼ(トウダイグサ科)のグラデイションがとても綺麗でした。
草木の実を探して歩きました。
コナラ(ブナ科)にドングリが沢山ついてました。
スズメウリ(ウリ科)の実です。
ヤブカラシ(藪枯らし)ブドウ科の実です。
イイギリ(飯桐)イイギリ科、おにぎりをこの葉に包んだのでこの名が残りました。
ゴンズイ(ミツバウツギ科) 木が柔らかくて役に立たないので魚の名前ゴンズイが着きました。
ユズリハ(ユズリハ科)の実です。
モッコク(ツバキ科)の実です。
ウメモドキ(モチノキ科)の実です。
それぞれの木に名前の書いた説明板が有りますのだいぶ勉強になりました。
城を巡る旅 岡山(備中)
2010.11.05 Friday
初めに岡山市北区の備中高松城に行きました。
日本で唯一、水攻めで落ちた城です。 この城は湿地帯に有ったので、その名残の蓮池が残ってました。
秀吉が1582年に毛利勢と戦っていたころ、この城はなかなか落とすことが出来ませんでした。 そこで部下の黒田官兵衛が「勘弁ならんと」思い水攻めにすることにしました。
城の周りに堤防を築いて、足守川から水を流し込みこの城は浮城の様にされてしましました。
秀吉の陣地から見た備中高松城です。 この城は1610年に廃城になっているので遺構はなにもありません。
この時期に本能寺の変が起こりました。 和睦を急ぐ秀吉はこの城の城主、清水宗治ら4人が切腹をすることを条件に城兵の命を助けることで和議がまとまり。ここの城主等の切腹を見届けて、明智光秀を討つため京へ引き返しました。
「浮世をば 今こそ渡れ 武士の 名を高松の 苔に残して」
これは城主、清水宗治の辞世の句です。
次に岡山市北区足守の旧足守藩を尋ねました。
ここの藩主木下家定の妹が秀吉の正室「ねね」です。 上の写真はねねが嫁入りに使った品々です。
すでに豊臣の紋、五七の桐が使われています。
ここは緒方洪庵の出生地でもありまして、上記の様な店が有りました。
次は備中松山城です。岡山県高梁市(たかはしし)に有ります。 現存する天主閣のある12の城の中で唯一の山城です。
朝方、標高430mのこの城から見える遠くの山には霞がかかってました。
手前の二つの櫓の奥に見えるのが天主閣です。この二つの櫓は復元されたものです。
天主閣の側面にある二重櫓です。 これは往時のものを改修したものです。 天然の岩盤の上に建てられました。
これが天主閣です。これも天然の岩盤の上に建ってます。この城は昭和と平成に改修されています。
この天主閣が現存するのは山の上にあるので壊すのが大変だったから今まで残されたという説もあります。
城主は何度も何度も変わってますが、その中には小堀遠州とその父親もいたそうです。
ここでお城のおさらいです。
上段左、白い格子が見えますがこれは連子格子(れんじこうし)と言って、ここから鉄砲を撃ったり矢を放つのに使われました。
その上の屋根を唐破風(からはふ)と言います 右の屋根は千鳥破風と呼びます。
下段左、鉄砲狭間(てっぽうざま)右は矢狭間(やざま)と呼びます。
この備中松山城は日本三大山城の一つと呼ばれています。
日本で唯一、水攻めで落ちた城です。 この城は湿地帯に有ったので、その名残の蓮池が残ってました。
秀吉が1582年に毛利勢と戦っていたころ、この城はなかなか落とすことが出来ませんでした。 そこで部下の黒田官兵衛が「勘弁ならんと」思い水攻めにすることにしました。
城の周りに堤防を築いて、足守川から水を流し込みこの城は浮城の様にされてしましました。
秀吉の陣地から見た備中高松城です。 この城は1610年に廃城になっているので遺構はなにもありません。
この時期に本能寺の変が起こりました。 和睦を急ぐ秀吉はこの城の城主、清水宗治ら4人が切腹をすることを条件に城兵の命を助けることで和議がまとまり。ここの城主等の切腹を見届けて、明智光秀を討つため京へ引き返しました。
「浮世をば 今こそ渡れ 武士の 名を高松の 苔に残して」
これは城主、清水宗治の辞世の句です。
次に岡山市北区足守の旧足守藩を尋ねました。
ここの藩主木下家定の妹が秀吉の正室「ねね」です。 上の写真はねねが嫁入りに使った品々です。
すでに豊臣の紋、五七の桐が使われています。
ここは緒方洪庵の出生地でもありまして、上記の様な店が有りました。
次は備中松山城です。岡山県高梁市(たかはしし)に有ります。 現存する天主閣のある12の城の中で唯一の山城です。
朝方、標高430mのこの城から見える遠くの山には霞がかかってました。
手前の二つの櫓の奥に見えるのが天主閣です。この二つの櫓は復元されたものです。
天主閣の側面にある二重櫓です。 これは往時のものを改修したものです。 天然の岩盤の上に建てられました。
これが天主閣です。これも天然の岩盤の上に建ってます。この城は昭和と平成に改修されています。
この天主閣が現存するのは山の上にあるので壊すのが大変だったから今まで残されたという説もあります。
城主は何度も何度も変わってますが、その中には小堀遠州とその父親もいたそうです。
ここでお城のおさらいです。
上段左、白い格子が見えますがこれは連子格子(れんじこうし)と言って、ここから鉄砲を撃ったり矢を放つのに使われました。
その上の屋根を唐破風(からはふ)と言います 右の屋根は千鳥破風と呼びます。
下段左、鉄砲狭間(てっぽうざま)右は矢狭間(やざま)と呼びます。
この備中松山城は日本三大山城の一つと呼ばれています。
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