日野原重明氏の講演とコンサート
2010.12.29 Wednesday
日野原重明氏の講演と座談会とコンサートのセットになったものに行きました。
日野原氏は今年の10月4日で99歳です。 講演と座談会の後は日野原重明祝祭管弦楽団による一足早いニューイヤーコンサートが有りました。
会場のパシフィコ横浜国立大ホールでは主催者発表では全国各地から4500人が集まったそうです。
彼は白寿にちなんで白のスーツで入場です。 氏は2時間位の講演ならば立ったままで飲み水なしで講演をこなすそうですが今回も大変元気そうでした。
長寿の秘訣はと聞かれると「少なく食べてよく歩くこと。」だそうです。 氏は座談会のなかで「深夜に電話が鳴ると必ず起き上がってから受話器を取る」と言われてました。
氏は敬虔なクリスチャンです。若いころ2度の大病をしたそうです。 彼はよく言います「自分は神によって生かされている。」と。
私は彼が「生かされている」と思いながら「少なく食べてよく歩く」のでこんなにも長い間にわたって大活躍しながら健康でいられるのだと強く思いました。
日野原氏は今年の10月4日で99歳です。 講演と座談会の後は日野原重明祝祭管弦楽団による一足早いニューイヤーコンサートが有りました。
会場のパシフィコ横浜国立大ホールでは主催者発表では全国各地から4500人が集まったそうです。
彼は白寿にちなんで白のスーツで入場です。 氏は2時間位の講演ならば立ったままで飲み水なしで講演をこなすそうですが今回も大変元気そうでした。
長寿の秘訣はと聞かれると「少なく食べてよく歩くこと。」だそうです。 氏は座談会のなかで「深夜に電話が鳴ると必ず起き上がってから受話器を取る」と言われてました。
氏は敬虔なクリスチャンです。若いころ2度の大病をしたそうです。 彼はよく言います「自分は神によって生かされている。」と。
私は彼が「生かされている」と思いながら「少なく食べてよく歩く」のでこんなにも長い間にわたって大活躍しながら健康でいられるのだと強く思いました。
旧古河庭園の灯篭
2010.12.29 Wednesday
旧古河庭園には灯篭が沢山あります。 黙って「とおろう」と思ってもそうはいきません。 灯篭は
仏教伝来とともに日本に入ってきて、その後、神社や日本庭園にも建てられるようになりました。
上が春日型灯篭です。 高さが6尺(1.8m)が標準です。 灯篭の呼び方は大雑把に言うと1番上が「笠」、火を入れる部分が「火袋」、足の部分が「竿」と呼ばれます。
春日大社の奥の院にあるものが本家なので「奥の院型灯篭」と呼ばれています。中央にある丸い輪の様な中台に十二支が彫って有ることが多く、装飾も春日型灯篭より多いです。
雪見型灯篭です。水面に浮いて見えるので「浮見」、点灯した時にその火が浮いて見えるので「浮火」などが訛って雪見型灯篭となったようです。
濡鷺型灯篭です。笠が厚く反りの無いのが特徴です。
松陰型灯篭
泰平型灯篭です。 がっしりして、節が3本有るのが特徴です。
仏教伝来とともに日本に入ってきて、その後、神社や日本庭園にも建てられるようになりました。
上が春日型灯篭です。 高さが6尺(1.8m)が標準です。 灯篭の呼び方は大雑把に言うと1番上が「笠」、火を入れる部分が「火袋」、足の部分が「竿」と呼ばれます。
春日大社の奥の院にあるものが本家なので「奥の院型灯篭」と呼ばれています。中央にある丸い輪の様な中台に十二支が彫って有ることが多く、装飾も春日型灯篭より多いです。
雪見型灯篭です。水面に浮いて見えるので「浮見」、点灯した時にその火が浮いて見えるので「浮火」などが訛って雪見型灯篭となったようです。
濡鷺型灯篭です。笠が厚く反りの無いのが特徴です。
松陰型灯篭
泰平型灯篭です。 がっしりして、節が3本有るのが特徴です。
コンドルと小川治兵衛
2010.12.27 Monday
コンドルと言っても鳥ではありません。東京大学に教授として招かれ日本人の女性と結婚して生涯日本に住みました。弟子には東京駅を設計した、辰野金吾、赤坂迎賓館を設計した、片山東熊がいます。 この建物は ジョサイア.コンドルが最晩年の大正6年に造った旧古河邸です。
外壁は小松石で屋根は天然のスレートで出来ています。 1階は洋室だけ2階は和室も有ります。
住まわれたのは古河財閥3代目の古河虎之助夫妻です。
コンドルはこの洋風建物とバラ園を設計しました。
このツツジの植え込みで分けられた下の部分は、近代日本庭園の先駆者、京都の小川治兵衛が庭園を造りました。
本郷台地のキワの部分の高低差を利用した「大滝」は滝壺まで20mの高さが有ります。あのサングラスをかけたタレントが見たら泣いて喜ぶかも知れません。
この「枯滝」は青石などの大石を立てて滝を表わし丸いゴロタ石で水の流れを表現しています。
「崩石積、くずれいしづみ」は石を垂直に立てながら崩れてこない技法です。 京都で発達したと言われています。
「黒ボク石積」は富士山の溶岩を石垣状に積んだものです。
この和様折衷の庭園は旧古河庭園として都立庭園になってます。バラ園と紅葉が見事です。
外壁は小松石で屋根は天然のスレートで出来ています。 1階は洋室だけ2階は和室も有ります。
住まわれたのは古河財閥3代目の古河虎之助夫妻です。
コンドルはこの洋風建物とバラ園を設計しました。
このツツジの植え込みで分けられた下の部分は、近代日本庭園の先駆者、京都の小川治兵衛が庭園を造りました。
本郷台地のキワの部分の高低差を利用した「大滝」は滝壺まで20mの高さが有ります。あのサングラスをかけたタレントが見たら泣いて喜ぶかも知れません。
この「枯滝」は青石などの大石を立てて滝を表わし丸いゴロタ石で水の流れを表現しています。
「崩石積、くずれいしづみ」は石を垂直に立てながら崩れてこない技法です。 京都で発達したと言われています。
「黒ボク石積」は富士山の溶岩を石垣状に積んだものです。
この和様折衷の庭園は旧古河庭園として都立庭園になってます。バラ園と紅葉が見事です。
日比谷公園
2010.12.26 Sunday
日比谷の交差点付近の通称有楽町口から日比谷公園に入ると石垣が見えます。
ここは江戸時代の日比谷御門の跡です。 高麗門と渡櫓門がセットになった枡形門が有りました。
今は石垣が有るだけです。
この石垣の奥にあるのが心字池です。 ここは濠のなごりです。 この池の主がアオサギです。
松本楼(レストラン)の傍らに有るのが「首かけイチョウ」です。
日比谷通りの拡張工事のため伐採される予定だったこの木を日比谷公園の設計者本多清六博士が自分の首をかけてでも移植すると主張し、見事移植に成功しました。
アメリカデイゴ(マメ科)の戻り咲きです。
THE BOOM の 「島唄」でデイゴの花は反戦歌のイメージが定着しました。
この公園の象徴の大噴水です。 水は12m の高さまで上がるそうです。
この噴水は多くのカップルを見つめてきました。
ここは江戸時代の日比谷御門の跡です。 高麗門と渡櫓門がセットになった枡形門が有りました。
今は石垣が有るだけです。
この石垣の奥にあるのが心字池です。 ここは濠のなごりです。 この池の主がアオサギです。
松本楼(レストラン)の傍らに有るのが「首かけイチョウ」です。
日比谷通りの拡張工事のため伐採される予定だったこの木を日比谷公園の設計者本多清六博士が自分の首をかけてでも移植すると主張し、見事移植に成功しました。
アメリカデイゴ(マメ科)の戻り咲きです。
THE BOOM の 「島唄」でデイゴの花は反戦歌のイメージが定着しました。
この公園の象徴の大噴水です。 水は12m の高さまで上がるそうです。
この噴水は多くのカップルを見つめてきました。
お正月の準備
2010.12.25 Saturday
六義園では植木職人さんが新年の準備をしていました。
上段左、一両(アリドオシ)、右、 十両(ヤブコウジ) です。
下段左、百両(カラタチバナ) 右、千両 です。
一両はアカネ科 十両、百両、万両はヤブコウジ科、 千両はセンリョウ科です。
万両は紅白二種類ありました。
これで「千両、万両有り通し」の語呂合わせになります。
ここの橋を写してみました。 橋は4つ有りますが、一つ撮り忘れ下段の橋は同じものです。
滝見茶屋の窓枠から滝を写してみました。 水分け石から流れる水が何度も見ていると滝に見えてきます。
アップで撮ればまさしく滝に見えてきます。
滝の近くには落ち葉が水面に浮いています。 ここのような光景を
「ちはやぶる 神代も聞かず 龍田川 唐紅(からくれない)に 水くくるとは」 と言うのでしょうか。
この歌の上方落語流の解釈では、 千早と神代に振られた相撲取りの龍田川が相撲を廃業し豆腐屋をしていた時、おちぶれた千早がおからを貰いに来て、貰えなかったので井戸に飛び込んで自殺した。 というようになります。
六義園の入り口にはお正月になると福寿草が飾られます。
上段左、一両(アリドオシ)、右、 十両(ヤブコウジ) です。
下段左、百両(カラタチバナ) 右、千両 です。
一両はアカネ科 十両、百両、万両はヤブコウジ科、 千両はセンリョウ科です。
万両は紅白二種類ありました。
これで「千両、万両有り通し」の語呂合わせになります。
ここの橋を写してみました。 橋は4つ有りますが、一つ撮り忘れ下段の橋は同じものです。
滝見茶屋の窓枠から滝を写してみました。 水分け石から流れる水が何度も見ていると滝に見えてきます。
アップで撮ればまさしく滝に見えてきます。
滝の近くには落ち葉が水面に浮いています。 ここのような光景を
「ちはやぶる 神代も聞かず 龍田川 唐紅(からくれない)に 水くくるとは」 と言うのでしょうか。
この歌の上方落語流の解釈では、 千早と神代に振られた相撲取りの龍田川が相撲を廃業し豆腐屋をしていた時、おちぶれた千早がおからを貰いに来て、貰えなかったので井戸に飛び込んで自殺した。 というようになります。
六義園の入り口にはお正月になると福寿草が飾られます。
弘法山
2010.12.23 Thursday
神奈川県秦野市の里山を散策しました。
権現山、浅間山、弘法山、吾妻山と歩きました。
落ち葉の感触を味わいながら歩きました。
「山路を登りながら、こう考えた。 智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。」 草枕より
お正月まで紅葉見物が出来そうです。
冬桜とセンボンヤリ(キク科)の実の集まったものです。
近くには大山(1252m)が見えました。
昔は「懺悔、懺悔、六根清浄」と言いながら多くの人がこの山の阿夫利神社まで登ったそうです。
落語にお「大山詣り」というものがあります。坊主にされた熊さんが一計を案じて仲間の奥さんを全部坊主にしてしまうという話です。
みんな毛が(怪我)無くて良かったというオチが付いています。
権現山、浅間山、弘法山、吾妻山と歩きました。
落ち葉の感触を味わいながら歩きました。
「山路を登りながら、こう考えた。 智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。」 草枕より
お正月まで紅葉見物が出来そうです。
冬桜とセンボンヤリ(キク科)の実の集まったものです。
近くには大山(1252m)が見えました。
昔は「懺悔、懺悔、六根清浄」と言いながら多くの人がこの山の阿夫利神社まで登ったそうです。
落語にお「大山詣り」というものがあります。坊主にされた熊さんが一計を案じて仲間の奥さんを全部坊主にしてしまうという話です。
みんな毛が(怪我)無くて良かったというオチが付いています。
銀水荘のエグゼクティブフロア
2010.12.19 Sunday
伊豆は「東も西も銀水荘」のCMでおなじみのこのホテルの最上階に特別室3部屋がリニューアルオープンしましたので早速行って来ました。
今回は電車で行きました。伊豆稲取駅から送迎車で到着です。
ホテルの周りはアロエが満開でした。
左が伊豆大島、右が水仙で有名な爪木崎付近です。
源泉かけ流しの部屋にある露天風呂です。(源泉が高温なので加水してあります。) 風呂を出て相模湾を見ながらまずビールです。
部屋はこのほかにツインべットの寝室、和室、ダイニングルームも有りました。
夕食はダイニングルームの椅子席での部屋食です。
伊勢海老や金目鯛の刺身や生きアワビのステーキなどが出ました。
畳も新しくて良かったです。 「OOも新しければ、、、」 なんていうことは全然考えませんでした。
今回は電車で行きました。伊豆稲取駅から送迎車で到着です。
ホテルの周りはアロエが満開でした。
左が伊豆大島、右が水仙で有名な爪木崎付近です。
源泉かけ流しの部屋にある露天風呂です。(源泉が高温なので加水してあります。) 風呂を出て相模湾を見ながらまずビールです。
部屋はこのほかにツインべットの寝室、和室、ダイニングルームも有りました。
夕食はダイニングルームの椅子席での部屋食です。
伊勢海老や金目鯛の刺身や生きアワビのステーキなどが出ました。
畳も新しくて良かったです。 「OOも新しければ、、、」 なんていうことは全然考えませんでした。
城めぐりの旅、小田原
2010.12.17 Friday
今回は小田原です。 現在の小田原城は江戸時代に建てられ昭和になってから復元されました。
北条早雲を祖とする後北条氏は3代氏康の頃、城と城下町が一体となった「総構(そうがまえ)」という城郭都市が作られました。
堀と土塁で周囲約20kmの広さをもっていたそうです。
これが現在も残る土塁の一部です。 当時は深さが12m位あったそうです。
全国をほぼ統一した豊臣秀吉が1590年に小田原城攻めを行いました。
小田原城を見下す笠懸山に石垣のある城を築き、ほぼ完成してから小田原城側から見える木立を一夜のうちに切り倒しましたので、一夜にして城が出来たように見えました。
これが石垣山一夜城の遺構です。 小田原攻めが終わったのち秀吉が石垣の要石を取り去ったため現在は石垣は崩れ去っています。
一夜城が出来て暫くして後北条氏の城は落ちてしまいました。
徳川の時代に建てなおされた小田原城の銅門(あかがねもん)です。 渡櫓形式の門です。(昭和になって再建)
天主閣です。 雛型が残っていたので当時の天主閣と同じような形に造られました。
後北条氏の小田原城落城の前、当主らが何度も会議を重ねても結論が出ませんでした。 そのことが後に中々結論の出ない会議を評して「小田原評定」と言うようになりました。
北条早雲を祖とする後北条氏は3代氏康の頃、城と城下町が一体となった「総構(そうがまえ)」という城郭都市が作られました。
堀と土塁で周囲約20kmの広さをもっていたそうです。
これが現在も残る土塁の一部です。 当時は深さが12m位あったそうです。
全国をほぼ統一した豊臣秀吉が1590年に小田原城攻めを行いました。
小田原城を見下す笠懸山に石垣のある城を築き、ほぼ完成してから小田原城側から見える木立を一夜のうちに切り倒しましたので、一夜にして城が出来たように見えました。
これが石垣山一夜城の遺構です。 小田原攻めが終わったのち秀吉が石垣の要石を取り去ったため現在は石垣は崩れ去っています。
一夜城が出来て暫くして後北条氏の城は落ちてしまいました。
徳川の時代に建てなおされた小田原城の銅門(あかがねもん)です。 渡櫓形式の門です。(昭和になって再建)
天主閣です。 雛型が残っていたので当時の天主閣と同じような形に造られました。
後北条氏の小田原城落城の前、当主らが何度も会議を重ねても結論が出ませんでした。 そのことが後に中々結論の出ない会議を評して「小田原評定」と言うようになりました。
国指定天然記念物、ビランジュ
2010.12.11 Saturday
箱根登山鉄道入生田駅の近くの地球博物館で教養の香りを付けてからタクシーで天然記念物ビランジュの木を見に行きました。
小田原市早川飛乱地1374にあるこの木は別名「バクチノキ」とも言われています
幹周 約5m 樹高 約25m です。 この木の東北限に生えているので大正13年に国の天然記念物に指定されました。
バラ科のこの木は樹皮が麟片状に剥がれてしまいます。 バクチをして身ぐるみを剥がされた事を連想してバクチノキと名付けられたようです。
この木は日比谷公園にも有りまして鱗状に剥がれている樹皮を見た事が有りますが、この木は樹皮が完全に剥がれて丸裸になっていました。
小田原市早川飛乱地1374にあるこの木は別名「バクチノキ」とも言われています
幹周 約5m 樹高 約25m です。 この木の東北限に生えているので大正13年に国の天然記念物に指定されました。
バラ科のこの木は樹皮が麟片状に剥がれてしまいます。 バクチをして身ぐるみを剥がされた事を連想してバクチノキと名付けられたようです。
この木は日比谷公園にも有りまして鱗状に剥がれている樹皮を見た事が有りますが、この木は樹皮が完全に剥がれて丸裸になっていました。